発達障害の夫との離婚

この話は、この1記事で。

12年前に離婚した1号にも、
この夏に離婚した2号にも未練はこれっぽっちも無いです。

 

今回2号との話をまとめてしまおうと思ってる。
…まとまる気はしないけど。
「まとめる」と自分に宣言してグダグダ書きたくないという心理もあってね。

 


2号とは、離婚する1年前には自分たちが離婚してるなんて全然思ってもいなかった。

 

失墜した信頼も時間をかけてまた信頼を積み上げていくしかないって思ってた。結婚て、そうやって崩れても立て直す、それの繰り返しだって普通だと思ってた。でも実際どうしていいかわからなかったうえに、日々の食い違い掛け違い交わらないコミュニケーションに気力を使い果たしていた。

 

信頼の失墜をするまでに、他の要素が揃いすぎていたから。

 

離婚理由は、発達障害

まず最初に断言しておくと。

2号の性格の長所は優しい、情に厚い。
家族と認めた人間には、惜しまずできることをする。

これは彼の良さだと今でも思っている。

 

だけど。

 

皮肉にも、これと真逆のことさえもさせてしまうのが、発達障害の特性。

 

性格と特性は別物。
だけど特性による生きづらさから、性格にも大きな影響を与える。
結果、性格悪い人、とくくられるのも仕方がない。

 

被害妄想が強かったり、疑心暗鬼だったり、物欲や拘りが強く、自制がきかなかったり。

 

大人の発達障害は、2号の場合は当事者自身の損得勘定で何とか制御できているようだった。自分のヌケや落ち度で自分が悪者にされることをおそらく人の何倍も嫌がる。

 

性格として責任感が強いとなおさらそうかもしれない。
だからと言って無責任な発言をしたりもしてしまうから周りは人柄にも困惑することもある。

 

だからこそ、イチ社会人として仕事でもまれて帰宅すると、顔色も悪くものすごくゲッソリとして帰宅する日々も少なくなかった。

 

多忙でも、一日の仕事でそんなにやつれているんだろう、と異常な窶れ具合の帰宅に心配することもよくあった。

 

けど、生きづらさから本人なりにミスないよう、責任の強さから責任を問われることのないよう、ものすごく神経をすり減らして毎日仕事してたんだろうなと思うと、やつれ具合も合点がいった。

 

目の前にいるのに夫婦関係が孤独

今でこそ、客観的に振り返れるから冷静に考えられるけど。
一番近くで家族として暮らすことは、孤独だった。
※まぁそれは別に発達障害でなくても夫婦仲においてはよく聞く話。

 

2号に対して発達障害を疑ったとき、何冊の本を読み漁った事か。

 

どれを読んでも、
あてはまる、似てる、これもだ…どんどんと核心に迫る思いだった。

 

だけど発達障害の特性も性格同様千差万別で。

 

すべてが一致することはなく。

 

だけど、知識を詰め込む中で、導き出した私の答えがひとつありましてね。

 

見えている時・物に、そのものに関心が向く
=そこが見えていない時は関心が向かない

 

本人は「いつもどんな時も好きだよ」と思ってる。
けどこの「いつも」が定型発達の人と感覚が違う。

 

ちょっと表現は違うかもだけど。
定型の人の「いつも」は、24時間中24時間思ってるのが「いつも」
発達障害の人がいう「いつも」は、「そのことを考えてるときはいつもそれだけのことを精一杯考えている」けど、趣味の事を考えているときは基本的に「イツモ」と言われてる部分は、横に置かれているような感じ。

 

同じ言葉で感覚が定型発達と発達障害の人で違うのがこの言葉の食い違いもひとつ。

 

2号さんが言ってました。
脳内は暗闇で、懐中電灯で照らしてるところだけしか見えないんだそうな。

これはASDの特徴的な表現と同じだったんです。

www.kaiseisha.co.jp

<竹田契一先生のことば>

大阪教育大学名誉教授/大阪医科大学客員教授
〜「アスペルガーの心1」解説より〜

アスペルガー症候群と診断された子どもたちは、よく暗闇の中を懐中電灯で照らしながら歩く不安なようすにたとえられます。懐中電灯の光が届く距離には個人差があります。
懐中電灯の光の中に見えている人とはコミュニケーションがとれるし、気持ちの理解もなんとかできるようです。しかし定型発達(発達上問題がない)の人のように昼間の明るさで360度見渡すことのできる状態で生きている人たちと比べると、そのハンディは大きいです。
(中略)


不思議な感じ。だからおのずと関心もそこにしか向かないんだよね。

 

冷たくされるのでもなく、
きつく当たられるでもなく、
「私がいることわかってる?」くらいの関心が向けられていない感じ。

 

 

そしてね、家族になったばっかりの時は、大事にしようっていう思いも相まって本当に大事にしてもらえてた。

 

じゃぁ後半は大事にしてなかったのかというとそうではなくて。

 

彼は自分が向いてる方向にしか懐中電灯を照らさない、当たり前に。
家族は自分が背負っている=自分の後ろに家族がいるわけで。

 

そうなると家族に意識が向く瞬間は減る。
ということは関心が向くことも減る。

 

本人は無視してるつもりも軽視してるつもりもない。

本人的には大事にしてる気持ちは変わっていない。

その証拠に、自分に関心を持ってほしいときに向けられないと腹を立てるのだ。
これがワガママにも見えるし、もちろん悪意はないし、どうしていいかわからないところだったりする。

 

2号自身は自分を見てほしいのに見てもらえないと腹を立て、
私も自分を見てほしいのに悩むと、見てると言われる。

 

「見てる」という言葉を持って、温度も意味合いも全く違うことを指している。

 

そんな日々で周りにいる家族は、2号自身が思っている通りには映らない。
家族を無視されているような感じになる。


夫婦である私は、妻として私に関心がないことが孤独だった。
私の意見を無視された時には、彼の関心は私の意見は横に置いといて、車を買う事、に注がれていたわけで。

 

客観的には理屈はわかるけど、そばにいると、私の意思や感情もおりまざるわけで。
すごく寂しかった。

 

彼にとっては、「今この時」を生きてるのが通常だった。
でももちろん彼にはそんな意識はなく、本人なりに先の事ももちろん考えて生きている。

 

何が言いたいかというと。
彼にはまったく悪意はなく、彼なりの愛情もずっと続いていた。

 

彼は結婚は向いていない、車以上に興味を引き寄せる女性が現れたらいいのだろうけど。

 

好きなものはあくまでも好きな「もの」
人に興味を長く持たないタイプだとおもうから、「一緒に過ごす時間」を大事に思う恋人という形態が彼には人付き合いはベストなんだろうな、と思う。

 

私にはその彼の特性を受け止める器量が足りなかった。

私なりに精いっぱい努力や調べたりフォローしてきたつもりだったけど、いろんな意味で口約束も最後は破られてしまったけど。

 

それもまた彼の特性だから仕方がないと、あきらめがつく。

 

定型の「無関心」、発達障害の「無関心」

同じ言葉でニュアンスは別物。

「無関心」と聞いても実際には事柄や存在を認知したうえで、興味がないというのが無関心。

 

発達障害特性の「無関心」は、そもそも存在すら認知される以前のような完全に頭の中から消え去られているような状況に似ている気がします。

 

夫婦関係も、本人の意識上では「妻を愛している」だったけど、潜在的にある特性部分では、女性として扱われることができなくなっていたようで、私はだんだん心を閉ざしていってしまった部分もある。

 

結婚不適合者でもなんでもいいけどもういいや

私の学びだけど、「あきらめる」のに、なかなかあきらめつかない自分が招いてる事象な気もする。

 

でもあきらめることで、相手も悲観的になるし。

 

子連れ再婚の難しさ
発達障害の難しさ

 

この両方はかなり厳しかった。。。

話し合うって難しい。
夫婦関係を続けていくって難しい。