シーズンいくつまでつづくのか
威張れる経験なんてほんっっっとに無い。
けど、「ワタシ」をつくってきた欠片たちがその「経験」。
少なからず気づき学ぶこともあったはず。
それでも、私は二度も結婚に失敗しているけど。
人生の大イベントを経験
といえば、何を思いつくのが多いだろう?
- 結婚
- 出産
- マイホーム
ここらへんだろうか。
うむ、私はコンプリートしている。
でもこれで終わっておけば、平穏だったんだけど…。
「できればしたくない経験」をしている。
「離婚」
しかも、2回
ドラマ「ワタシ」は、シーズンいくつまで?
まだ未婚のころは、結婚して出産して色々ありながらも結婚生活を続けていくことに疑いもしなかったもんだけど。
人生、ほんとに甘くないというか、私のミスチョイスだともおもうけど、結婚不適合者だと思うわ。
シーズン1:未婚時代
長子長女として、大事に、かつちょっと厳しく育てられた私は、「お姉ちゃんなんだから」と定番のセリフで我慢を強いられながら幼少期を過ごした。
その結果、自己主張が苦手で、我慢することがデフォルトの人間になってしまう。
そして自己主張苦手な分、自信を無くすこともあり自己肯定感も下がっている。
恋愛をするようになってから、男性に依存しがちになった。
そんな私が選ぶ男性は、よく言えば「頼れる」、悪く言えば「ワガママ」に偏りがち。
そして表面的な優しさにも心動いてしまうチョロい女子になってしまった。
私の生きてきた道は、ここらへんからずれていってたんだなって今は思う。
かといって、好奇心旺盛なところもあって、刺激を求める一面もあった。
自己肯定感が低く、優しさにもろいと、交際は始まりやすい。
だけど相手をよく知りもしないうちから付き合い始めるから長くは続かない。
だけど依存先がないとダメだったから、いつも彼氏がいる「男が絶えない女」というやつになってしまってた。
そこは今も変わってないところだな。
けど、10年ほど前、二十歳過ぎのころに付き合ってた男性と連絡が取れた時に、当時の私の印象は愛情に飢えていた、と言っていた。
私はずっと昔から、メンタルが満たされる相手を探していたのに、その自覚が持てていなかったことがおそらく大きな盲点だったんだろうと思う。
そして結婚相手に選んだのは、のちにワガママで酒浸りのモラハラ夫へと化けてしまう母性に飢えた男性だった。
シーズン2:初婚
結婚は自分の責任だ、これを最初に自分に向けて言っておく。
まず、初婚の元夫を1号と名付けておく。
彼は私の2歳年上で同じ職場で知り合った。
義父は大工で寡黙な人、義母はお節介焼きでデリカシーに欠ける人だった。
うまくいってるときは誰だって恋人には優しいものだ、これは当たり前。
元からお酒が大好きで、楽しいお酒を飲む人だった。
ただ、セーブがきかず飲みつぶれることもよくあった。
結婚して、子供をもうけようと意識しだして私は1号と同じ職場を退職した。
そしてその数か月後、順調に子供を授かる。
さて、私が退職したあたりから、夫は強く出てくるようになった。
稼いでる俺のほうがエライ、とね。
ここらへんから少しずつモラハラの片鱗がのぞき始めていたんだな。
子供が生まれ、ただでさえ苦手な家事がますます、ままならなくなっていく。
片づけていく後ろから、赤ちゃんがおもちゃを広げていく。
仕事柄よそのお宅に上がることもある1号さんは、
「よその奥さんは子供が小さくても家は片付いてるのに、なんでうちはいつも散らかってるんだ?」
と怒ることが増えた。
「業者が家に上がるなら、家の片づけはするもんでしょうよ」と答えた時もあったが、できるなら毎日やれよ、と。
子供と本人が機嫌がいいときしか子供の相手をしない人間にわかるもんか、と思っていたがケンカするのは大の苦手で、口論では勝てないのでため込んでた。
そしてだんだんと1号は、家の中で不満をこぼし、私を否定するようになる。
同時に酒浸り具合もひどくなっていく。
「○○(私)が、稼ぎに出て俺と同じように稼げるなら文句を言えばいい。
だけど、○○にはそんな稼げないだろ?」
と。
それから言葉の暴力、否定文句も増えて、そのうち、1号が仕事に行ってるうちは平常心、帰宅時間が近づくと感情が死んでしまうようになっていく。
妻として否定され、
母として否定され、
人として否定され、
デキナイもの
離婚を望んでいないと最初は私も言っていただけに、それを逆手にとって頻繁に脅してくるようにもなった。
「俺は離婚したっていいんだけど?」と。
ひたすらそんな言葉を受ける毎日に、私は「離婚したっていいんだけど?」と投げかけられたタイミングで
「じゃぁ離婚しよう、もう無理」と答えると焦る1号。
そこからは、脅しても言う事を聞かない私に対して暴力を振るうようになる。
子供の目の前で突き飛ばされたり、子供だけを連れて1号が実家に帰ったり、家の中に引きずり込まれて物置に放り込まれたり、と。
あげく私の浮気を疑われて、「勝手に疑われるくらいならこんなもの捨ててやる!!」と深夜に家を飛び出して携帯を貯水池に投げ込んだのも今だから笑える話。
そこから5か月後の2010年2月、離婚成立。
娘の親権は私、そして母子は実家に戻った。
シーズン3:離婚、ひとり親の恋愛
私と娘は母子でセットだ。
それがひとり親のデフォルトかな、と思う。
子供がいては夜遊びに行くこともなかった私は、子供を寝かせた後はネットでゲームをすることが現実逃避だった。
ひとりで子供を育てて、稼いで、と先の不安しかなかったとき。
やっぱり私は心のよりどころを求めた。
出会ったのはゲームの中での関東在住の9歳年上。
彼もまたシングルファザーだった。
同じ境遇から意気投合して、仲良くなるのに時間はかからなかった。
ひとり親の心境は、なったものにしかわからない。
今でもそう思う。自分自身がいざそうなってみてそう感じたからね。
彼が仕事で私が住む地域によってくれることもあれば、私も年に一度あるかないかで子供を連れて会いに行き、お互い子連れであったりしていた。
そんな付き合いも4年つづけて、彼との未来はあるのか?と考えることが次第に増えていった。
彼の仕事や状況を考えると、一緒になることはあってもやっぱりしんどい状況になることが想像ついていて、別の道を歩めば当時の自分の年齢なら子供も設ける事も可能かもしれないとか妄想も走らせ、自分の年齢と照らし合わせ意を決して彼から離れることを決めた。
私はもう一度だけ、夫がいて子供がいる家族を生きたかったから。
でもこの恋愛で、私も「子連れと付き合う人」という立場の目線を得た。
孤独なんだよね、この立場も。
それは大きな収穫だった。
シーズン4:再婚、再離婚…
離婚して私は就職、転職、転職をして現在の職場で働き続けている。
再婚した夫は、2号と名付けておく。
- 婚姻期間:9年弱
- 二回目の結婚は再婚同士。
- 2号は収入もよく、娘も幼くはあったけど、私は仕事をやめなかった。
- 妊活も検討したが授かることはなかった。
- 注文住宅を共有名義でマイホーム建築。
- 夫婦生活も最初の2年ほど、のちに夫に発達障害(ASD・ADHDの)の疑惑。
そして夫婦生活がないこと、その他コミュニケーションの壁などの原因がそこにあるだろうと大よその検討はつくものの、家庭内での孤独を拭い去れず。 - 発達障害気質による「こだわりの強さ」から強引さが年々目立つようになり、彼の趣味で大好きな車を、2年に一度外車を買い替えていき、それによる夫婦不和の溝が深まっていく。
- 最後の車の買い替えの時には、車を買い替えたいばかりに「反対意見は聞き入れないから」とピシャリと遮断され、夫への信頼は失墜した。それから夫婦関係がぎくしゃくし始め、大きな買い物をするにも関わらず夫婦関係すら無視された夫へ優しくすることができず、冷たくなった私に対しての不満で夫はアルコール依存がちに。そして、のちに飲酒してる時に娘に矛先をむけ私への不平不満をぶつける。
- 娘はそれを受けて、その後登校拒否。私は適応障害発症。
- 家を売却し、それぞれ別の住まいへ移り、離婚。
離婚した3年後、私はのちの二人目の夫となる人物と出会い、付き合い始める。
彼は、私の4つ年上で、私と同じくして2010年の冬に離婚をしていた。
その結婚で彼に子供はいなかった。
当時私の娘は6歳になるちょっと前で、彼とご対面している。
そして付き合いだして1年と1カ月後、入籍。
最初の2年は本当に穏やかで幸せな結婚生活だった。
時には夫婦喧嘩もあるだろうけど、話し合いができていたので大丈夫だと思えていた。
コンパクトながらも住みやすい家を建て、車が好きな夫はマメに家の前の車庫で洗車をしていた。
結婚して3~4年目のころ、時々話がかみ合わないことが増えてきた。
主語がない会話が多く、話題がいつの間にか変わっていて
「今、何の話してるの?」ということがよくあった。
当時は「夫は変わり者だな♪」くらいでとらえていたけど、だんだんと違和感を感じ始めるようになり、調べてたどり着いた答えはASDとADHDだった。
そのうちコミュニケーションが成り立っていないことも増え、家の中で孤独を感じるようになる。2号を遠くに感じるようになったのだ。
そして色々話し合ったり対策を練ったり、2号も当時協力的だった。
それでもやっぱりどうにも埋め合わせようのない食い違いすれ違いがあって、離婚に至る。
私は余生のつもりでも
人生はそうはさせてくれない。
結婚、出産、建売マイホーム、離婚、再婚、注文マイホーム、再離婚。
もう人生イベントコンプしたでしょう。
ゆっくり穏やかに残りは生きていきたい。
娘を育て上げる、それが今一番の私の使命。